m-16

 
 指定の時間通りにマンションのエントランスへ着くと、すでに一台の車が止まっていた。

 僕たちの事を確認した加持さんが車から降りてきた。

「お、時間通り。」

 時計を確認しながら、加持さんが言った。

「だって、時間を守らなかったら、『次は無いぞ!』って加持さんが言ったんじゃないか。」

 少しむくれてカヲル君がいう。

「言ったか?」

 すっとぼける加持さんに、不貞腐れるカヲル君。上手くいっているんだ、と思った。僕自身が他人との同居は嫌な思いで終わったので、安心したと言うか、羨ましいと言うか。単に、あのふたりが問題だっただけかも知れないけれど。

「さて、帰りましょうか、ヒナちゃん。」

 カヲル君とは打って変わった僕への扱いに、仕事に忠実なのか、純粋に女の子とみなされているのか。だから、

「お願いします。」

 と“素”の状態ではなく、営業用のって言うか外面用って言うか、内情を知らない人用の笑顔、当社比2倍って感じで言ったら、思いっきりお姫様扱いされた。

 あっという間に後部座席に納められ、車椅子はたたまれてトランクへ入れられた模様。よくは見えなかったけど、カヲル君が加持さんを手伝ってた。

 そして、加持さんは運転席に乗り込んでから助手席の窓を開けてこう言った。

「何だ、お前は乗らないのか?」

 慌ててカヲル君は乗り込んできたんだけど、本当に助かった。

 今日、この状態で話す事、話せる事なんて無い。色々と聞きたい事はあっても、機密に触れれば教えてはもらえない。それは仕方が無い事だとは理解してても、理屈と感情は別物だ。

 

「聞きたい事、あるんだろ?」

 話を切り出したのは加持さんだった。

「聞きたい事って言うか・・・・・・。」

 言葉を濁す僕に曖昧な笑顔のカヲル君。車の中の空気がどんよりとしていた。

「とりあえず、現状維持、だ。」

 現状の維持。この、曖昧で不確かな状態の維持。

 何かきっかけがあれば崩れてしないそうなこの現状の維持。

 安堵なのかため息なのか。カヲル君も大きく息を吐き出していた。

「ま、正確には様子見だろうな。」

 続いた言葉が確信な気がした。

「様子見・・・ねぇ・・・・・・」

 何を今更、と聞こえるカヲル君の声。それには僕も同意だった。

「葛城に関しては懲戒免職をご希望の方もいるようだし?時間の問題だけどな。」

 あぁ・・・・と思った。だとしたら、執行猶予期間って事なのかな。

 ま、どっちにせよ、機密をしゃべられたらたまったもんじゃないのだろう。

「でもって、一番厄介なのが、アスカだ。」

 そう前フリをして加持さんが話し出す。

「未成年だし、実際にエヴァで戦ったチルドレンを無碍には出来ない。」

 それは確かにそうだ。だから、父さんも母さんもリツコさんも困っている。

「何かいい手は無いか?」

 なんて、冗談めかして聞いてくる。僕が一番アスカの性格を理解しているという事なんだろうか。

 段々と思考が僕を支配していく。

 本当は前回で懲りているのであまり口出しはしたくないんだけど。

「・・・・・加持さん。」

 とがめる様なカヲル君の声に現実に引き戻された。

「いい手と言われても・・・・・」

 何だか今日は思考が働かない。

「ま、それはさておき・・・・」

 と一転して加持さんの声は真剣そのものになった。

「今、考えているのがドイツ支部への配置転換だ。ま、本人は嫌がるだろうがな。」

 確かに、と思う。

 日本がネルフ歓迎ムードなら、ドイツはそのま逆である。今回の【人類補完計画】の首謀者である人物がいた所為で世界中から非難を受け、何も知らなかったドイツ支部の人まで肩身の狭い思いをしているらしい。もし、アスカがドイツ支部に転属になったら場合、日本にいる時の様な扱いは受けないだけじゃなく、肩身の狭い思いを彼女自身がしなければならない。

「ま、組織に所属してれば配置転換だってある訳だし?ましてや、親元だ。」

 加持さんの言葉に、これが一番の得策なのかもしれないな、と思った。元々ドイツ支部だった訳だし。未成年者が親元に帰る形になる訳だし。ただ、そこに彼女の意思は含まれないけれども。

「栄転で考えてはいるんだが・・・・・ドイツ支部はいい返事をしないし・・・・」

 曖昧に言葉を濁す加持さん。ドイツ支部でもこの現状で帰ってこられても“厄介者が増える”って認識されているって事?

 帰るにしても一波乱ありそうだ。アスカと本部だけでなく、本部と支部とも。

 今日は疲れたな・・・・・なんて思いながら、今後の事を考えようとしたけれど、考えがまとまらない。興奮が冷めてしまえば残るのは、心地好い疲労感。僕は思考の波にのまれつつ、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 

 

 

 

 

 


 夢を見た。

 そう思った。

 

 でも、違う。

 

 あぁ・・・・これは忘れてしまっていた赤い海での記憶だ。

 

 そうだ、僕は忘れてしまっていたんだ。

 

 ただ、それだけ。

 

 

 

 紅い海と綾波。

 赤と蒼のコントラストがキレイだな・・・・・なんて、場違いな事を考えていた。

 波打ち際で寝転んだまま、綾波を見上げていた。

「碇君。」

「何?」

 何故か僕は、その“綾波”が僕の知っている、僕の好きだった“2人目の”綾波だと知っていた。

「帰りたいの?」

 波打ち際で佇む僕に、綾波が声をかけた。

 おかしいな、僕、波にのまれたはずなのに。

 でも・・・・・・・

「解らない。でも・・・・・・。」

 この世界はイヤだ。

「・・・・・・還りたいのね。」

 そう・・・・なんだと思う。でも・・・・・・

「でも、この世界は僕の責任だから。」

「・・・・・・・・。」

 綾波は何も言わず、哀しそうな目で僕を見ていた。

「この世界は、僕の責任なんだよね。」

 問い詰めるつもりなんて無かった。ただ、本当にそう思った。だから口にした。

「だから、僕はこの世界に居なくちゃいけないんだ。」

 その時は本当にそう思っていた。

 もう、あの世界には戻りたくなかったのかもしれない。

 でも、この世界もイヤだった。

 どうしようもないジレンマ。

「それにね、僕はもう、誰とも争いたくないんだ。誰も傷付けたくはないんだ。」

 そう言って僕は綾波に背を向けた。

 

 

 

 アスカは随分と前に、赤い海に帰った。

 

 だから、ここには誰もいなかった。綾波が来るまで。

 でも、それでいいと思った。

 この世界は僕の責任。僕が逃げて招いた結果。

 

 今はただ、人間が怖かった。

 こんな世界にした僕を責めるんじゃないかって、そう思ってた。

 

 

「この世界は、碇君の責任じゃない。」

 長い長い沈黙の後、唐突に綾波が言った。僕は綾波に背を向けたまま、振り返りもしなかった。

「僕の責任だよ。」

 僕が逃げた結果。僕が他人と向き合おうとしなかった結果。

「正確に言うわ。この世界は碇君だけの責任じゃない。」

 綾波。ありがとう。

 でも・・・・・・・・

「僕の責任なんだ。」

 背を向けたままなんで、綾波の表情は解らない。でも、顔を見てても解らないかも知れない。綾波、ポーカーフェイスだし。

 

 って・・・・・・違うな。

 綾波は“感情を知らなかった”んだ。楽しいとか、哀しいとか、嬉しいとか。

 そう思った途端、はじかれた様に起き上がった。

「綾波。・・・・・・・・・・ゴメン。」

「どうして謝るの?」

 不思議そうな赤い瞳。

「だって・・・・・・・」

 君を傷付けた。また、君を傷付けた。

 僕は、もう誰も傷付けたくないと思ったのに。

「碇君。」

 だけど、綾波は真剣な眼差しで僕を見る。「本当は帰りたいんでしょ?」と聞いてくる。

「帰りたくなんか・・・・・・。」

 言葉が続かなかった。

 そんな真剣な顔で見られたら、嘘なんて吐けない。

 でも、帰りたい訳じゃない。帰りたくない訳でもないけど。本当に、自分がどうしたいのか解らないんだ

「本当は、よく、解らない。」

 いつも僕には真剣に向き合ってくれていた君に、嘘は吐きたくは無い。

「よく、解らないの?」

 こんな答えしか出来ないけれど、君は笑わないで居てくれる。だから素直に「うん。」と答えた。

「そう。」

 と君は微笑んでくれる。沢山居た人の中で、君は、最後の最後に僕を見捨てないでくれたんだって、後になって理解した。沢山の人が溶け合った、赤い海で拾った記憶。

 あの忌々しい儀式の中で見た綾波は怖かったんだけど、今、目の前に居る綾波は怖くない。

 お互いに話すほうじゃなくって、今だって二人とも黙り込んだままだけど、それでも嫌な空気にはならなかった。綾波と居ると心地よかった。

「ねぇ、綾波。」

 僕が話を切り出した。

「色々と・・・・・その・・・・・・ゴメン。」

「・・・・・・・・・・。」

 言葉もなく不思議そうな顔で僕を見る。

「僕、君を怖がってしまって・・・・・・」

 僕の言葉に「いい。」と返してくれる綾波が居る。それだけで十分だった。

 だけど・・・・・・・

「帰りたいと思えば、帰れるの?」

 本当に素朴な疑問だった。この世界から元も世界に帰れるなんて。

「帰れるわ。」

 綾波がきっぱりと言い切った。

「だって、今の碇君は“神”とも呼べる位の力があるもの。」

「え?」

 ・・・・・・・何、それ・・・・・・・・

「儀式の依り代になった所為。」

 あぁ・・・・・と納得した。手の甲に残る痣はその所為なんだろうか。

「碇君、貴方が望めば元の世界に帰れると思う。」

「帰れる・・・・・か。」

 僕が帰りたいと願えば帰れるんなら、それは、今でなくていい。別に帰らなくてもいい。帰れなくても構わない。

 誰も居なかったこの場所は、綾波が居る事で居心地のいい場所になったし。

「碇君。」

「何?綾波。」

 真剣な赤い瞳。僕だけを映す赤い瞳。

「ごめんなさい。あまり、時間が無いの。」

「え?」

「私は力を使い切ってしまったから。」

「え?」

「だから、この体を維持できない。」

 そんな・・・・・・・・

 元の世界になんて帰れなくってもいいんじゃないか?このまま綾波と居るのもいいんじゃないか?と思ってしまった僕には十分に衝撃的な言葉だった。

「じゃぁ綾波。僕の力をあげるよ。僕、力を持っているんでしょ?」

 綾波はさびしそうに首を振った。

「そんな・・・・・・。」

 せっかく綾波が、2人目の綾波が居るのに!どうして!?

「じゃぁさ、2人で帰ろう?それなら出来るでしょ?」

「3人目が居るから・・・・・・。」

 と綾波が首を振った。

「綾波が帰らないのなら、僕も帰らない。」

「碇君・・・・。」

「だって、そうでしょ?僕だけ帰ったら、また、あの生活に戻るんでしょ?」

 そう、あの生活。ミサトさんとアスカとの生活。エヴァと関り続ける生活。そんなの、嫌だった。

「碇君・・・・・・・。」

「僕は、嫌だ!」

 感情が抑えきれなかった。

 誰も傷付けたくは無いと思ったのに、でも、それでも、感情が抑えられない。

「もう、エヴァには乗りたくなんか無い!」

 嫌だ!嫌だ!嫌だ!

 もう、あんな世界は嫌だ。

 誰も優しくない、誰にも優しくされない世界なんて嫌だ。

 僕は子供の様に駄々をこねた。

 だって、本当に嫌なんだ。

 綾波の居ない世界なんて、僕を僕として見てくれる人の居ない世界なんて嫌なんだ。

 僕をエヴァのパイロットとしか、サードチルドレンとしか見てくれない人しか居ない世界なんて嫌なんだ。

「ねぇ、綾波。一緒に帰ろう?」

 僕は綾波にすがった。それしか方法が見付からなかった。

「お願いだよ、綾波・・・・・・。」

 それでも綾波は「うん」と言わなかった。

 だんだんと絶望感が僕を支配していく。

 綾波は何も言わず、たださびしそうに僕を見ていた。

「綾波・・・・・・・・・・。」

 ねぇ、綾波、僕は神様になったんじゃないの?だったら、僕の願いは叶うんじゃないの?

「ごめんなさい。」

 その言葉に僕は呆然と立ち尽くした。

 僕に力があるって言ったのに、それでもダメだなんて・・・・・・僕はどうしたらいい?

「碇君。」

 長く苦しい沈黙の後、綾波が僕を呼んだ。

「何?綾波。」

「あなたはここに居てはいけない。帰らなければいけない。」

「どうして・・・・・・どうしてだよ?」

 気の所為か、綾波の存在が希薄になっている。時間が無いって、そういう事なの?

「本当に時間が無いの。だから・・・・・・。」

「綾波・・・・・・・・。」

「私のお願い、聞いてくれる?」

 また少し、存在が希薄になった綾波が哀しくて、僕はうなずいた。

「ありがとう。」

 哀しいくらいの笑顔に、涙が出た。

 でも、納得なんて出来やしない。

「碇君、あなたには幸せになって欲しい、誰よりも。あなたにはその権利があるわ。」

「それだったら、綾波だって同じだよ。」

 夢中でそう言った。だって、そうだろ?

「3人目の私が幸せになるから大丈夫。」

 ・・・・・・・そんな・・・・・・・・

「碇君がエヴァやネルフと関係ない生活が送りたいのなら、何か方法を考えるわ。」

 そんな事より、僕は綾波がいればいい。

「だから、私を忘れないで。」

 忘れるわけ無いじゃないか。僕は綾波だけいればいいんだ。

 ずっとここで2人で居たいよ。

「忘れる訳、ないじゃないかっ!!」

 無我夢中で叫んだ。

 忘れられる訳が無い。何も無いって言っていた君を、僕を守ろうとしてくれた君を、最後に僕を見てくれた君を。

 だから、僕は綾波に触れた。僕の右手て綾波の左手首を、僕の左手で綾波の右手首を。触れたと言うより、つかんだ。

 細い手首。僕の手には、綾波の温もり。

 こんな状態になって、やっと触れたれた綾波の感触。離したくは無い、そう思った。

 

『碇君には、他の女性(ひと)を見て欲しくない。』

 

 綾波の声が頭の中で響いた。

 目の前の綾波は微笑ってる。だから気付いた。これが綾波の本音だと。

 漠然と浮かび上がるアスカとミサトさんのイメージに綾波が僕たちの“あの生活”をうらやましく思っていたことを知った。

 ゴメン、綾波。僕は今の今までそんな事、考えもつかなかったよ。

 あんな、何も無い部屋で君は一人で暮らしていたんだよね。そんなことにすら気付かなかった自分自身に嫌気がさした。今、僕が言っている事は、子供のわがままでしかない。思い通りにならないからって、泣いて駄々をこねる子供と何の変わりも無い。

 だんだんと薄れていく綾波の感触にお別れが近い事を悟った。

「・・・・・・ありがとう。」

 優しくて、哀しくて、涙が止まらなかった。
 

 

 

 

 呆然と立ち尽くしていた。

 最後の最後まで、綾波は綾波だった。自分自身の“生”に無頓着で、人に優しくされる事を知らなくて、与えられる事に慣れていなくて。

 綾波の居なくなったこの世界に未練はなかったけれど、僕には願うことが出来なかった。

 怖かった。

 綾波のいない世界でひとりになるのが怖かった。

 帰ればまた、あの生活になる。そう思うと僕の足はすくんだ。

 綾波は僕がエヴァに関らなくてもいい様にしてくれるとはいっていたけれど、彼女たちと関らなくてもいいとは言っていない。だから、怖かった。

 

 

 でも・・・・・それでも・・・・

 

 僕は綾波の願いを聞かなくちゃいけないんだ!と決死の覚悟を決めた。

 

 だから、綾波、力を貸して・・・・・・・


 

「この世界は、君の・・・・君だけの所為じゃない。」

 カヲル君の声がした。でも、彼は何処にもいなかった。

 綾波じゃなくて、どうしてカヲル君?

 

「君は“きっかけ”に過ぎないんだ。こうなる様に“仕向けられた”んだ。」

 頭の中に響く声。

 

「君は“仕組まれた子供”。僕もだけどね。」

 そう言って微笑った様な気がした。

 

 「帰るんだよ。」

 とカヲル君が背中を押した。その瞬間、僕は誰かに背中を押して欲しかったのだと理解した。

 世界が暗転する。

 だから僕は願ったんだ。綾波が僕に優しさをくれたから。僕が・・・・・僕だけが幸せになるんじゃない。みんなが幸せになれる様に。綾波が、僕に教えてくれたから。

 だから・・・・・・・・・・・


『ゴメンナサイ。我がままで。でも・・・・・・・最初で最後の我がままだから・・・・・』

 綾波の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 


 

 

 

 

 

 

Eternal Flame

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論は出したものの、先延ばしの宙ぶらりんの状態。

 僕はアスカを受け入れるって言ったけれど、それすら忘れ去られている状態。きっと、それほど深刻な状態なのかもしれない。詳しくは誰も教えてくれないけれど。

 栄転するって話も、その後、聞いていないし。

「加持さん。」

「何だ?」

「暇・・・・・・・。」

 リビングの定位置の椅子に座ったまま、視線すら合わせずに会話をする。

「そんなに暇なら、誰かと遊べばいいんじゃないのか?」

「・・・・・だって、いないもん。」

 そんな事言ったって、友達と呼べる人は、今のヒナノにはいないのに。

「そうなのか?」

 ・・・・・・・何が?何言ってるの?

 加持さんの顔を見ると、実に楽しそうな表情で・・・・

「ウチの同居人は『お誘いが無い』って嘆いてたぞ?」

「ほえ?」

「相田君だっけ?彼もお誘いが無いって言ってたし。」

 って、社交辞令じゃなかったの?ケンスケ・・・・・

「鈴原君経由でヒカリちゃんも同じだって聞いたんだけど?」

 え~っと、どうしてそこでトウジとヒカリちゃんが出てくる?

「って訳で、明日はカヲルが俺の変わりに来る。」

「・・・・・・うそ・・・・・・。」

「嘘を吐いてどうする?俺は明日から仕事で出張だ。」

 マジですか?

 

 

 あの夢を見てから僕の体力はかなり回復した。普通に生活が出来るのか?と聞かれたら疑問は残るけど。でも、一時期のあのどうしようもない状態からは脱出できたと思う。

 僕は綾波の願いを聞かなくちゃ。

 そう思った。

 幸せになって欲しい、と言われたから。

 綾波のわがままを聞こうと思ったから。 

  『言霊』と呼ばれるものが本当に存在するのかは解らないけど、あの時のどこか諦めていた精神状態とは全く違った今の精神状態が作用しているんじゃないかと思う。

 一時でも“神”とも呼べる位の力があった僕だから、尚更だったんじゃないかとさえ思える。もう、手に痣は残っていないけれど。

 で・・・・・・気付いた。

【幸せになって欲しい。】の意味。

 綾波がそうだったけど、周りの人も「幸せになって欲しい。」と言う。「あなたは幸せになる権利がある。」とも言われた。決して簡単に「幸せになれ」とは言わない。

 それは、僕が自分自身の犯してしまった罪を自覚して、“幸せになってはいけない”と思ってしまっているからだと気付いた。自分で自分を縛っているのだと気付いた。

 あの赤い世界は僕だけの所為でなく、色々な人たちの色々な因果や妄執やエゴや思惑や、そういったモノが集まってしまって出来上がった世界だと今は、思える。きっかけが、トリガーが僕だったのであって、僕がしてしまったのでは、僕だけの責任ではないのだ、と思えるように、そう思う様になった。進歩なんだかどうなんだかは知らないけど。

 綾波とカヲル君の間に何があったのかは詳しくは教えてもらっていない。教えてもらっていないけれど、何かあったのは確実だのだ。だって、カヲル君言ったから。

「僕はレイちゃんに君を託されたんだ。」

 と。

 カヲル君は綾波がアダムの魂と一緒に“無に帰った”と言ったけれど、それが彼女の願いであったと言われたけれど、でも、それでも、今、ここに綾波にいて欲しいと僕は願わずにはいられなかった。


2011.05.27