掴めそうで掴めない、そんな記憶がある。
思い出したいのに、思い出せない。
目の前に、その“記憶のカケラ”があるのにそれが掴めない。
もやもやとした気持ちだけが、手の中に残る。
僕は仕組まれた子供。
そう教えてくれたのは、誰だったのだろう。
僕の背を『還るんだよ』と優しく押してくれた彼らの手のぬくもりは覚えているのに。
何だか、とても大切で、とても悲しくて、とても暖かかった、その手のぬくもり。
父さんでも母さんでもない、誰かのぬくもり。
僕はまだ、その手に触れてはいない。
Branches
「あぁ・・・、アスカなら元気よ。」
部屋に入ってきたリツコさんは、挨拶もそこそこに言った。「腹が立つ位にね。」付け加えられた言葉に笑いが漏れた。
「・・・・・・よかった。」
そう笑顔で言えるくらいには、回復できた。精神的にも。
「それにしても・・・・・・下がんないわね、熱。」
この1週間、微熱が続いている。
朝起きると熱は下がり、夕方くらいから微熱程度の発熱。普通の人なら許容範囲内の熱でも、体温の低いヒナには許容範囲外となってしまう。
「・・・・・・いい加減、厭きました。」
元々、動かなかったけど。動けなかったけどっ。でも、1日中ベッドの上だと・・・・・さすがに、厭きる。
時間が取れると、お父さんやお母さん、リツコさんや冬月先生まで来てくれた。加持さんに至っては、ヒナが起きている時間の大半は居たりする。
でも、それでも、家に帰りたい。自分の居場所はここではないのだから。
「熱が下がったら、即、退院でいいわよ。」
実にあっさりとリツコさんは言うけど、それが出来ないから困ってるんじゃないか・・・・とこぼれそうになった言葉をため息と一緒に飲み込んだ。
「あの、狸なオヤジがね・・・・・」
とリツコさんが話し始めた。
「アスカを引き取る事に返事をしないのよ。」
え?
唐突に切り出されたアスカとアスカの父親の話題。この1週間、全くと言っていい程触れられなかった事だった。今はリツコさんの所にいるって事しか、知らされていない。
「のらりくらりと返事をかわしてね、決定的な返事はまだなの。」
それって・・・・・・・
「アスカ、継母とはいい関係じゃなかったみたいね。」
そう言えば・・・・・と思い出す。
本人もそんな事、言ってた。
「表面上は巧くやってるみたいだけど・・・・・ね。」
あくまでも“表面上”でしかない関係がどんなものなのか、たやすく想像は出来た。きっと、それは、“拒絶”を意味する。
アスカとアスカのお母さんとの間に何があるのか、何があったのかは知らない。でも、アスカの母親への、惣流・キョウコ・ツェッペリンと言う人への異常なまでの執着は知っている。
「アスカにとっての母親は、惣流・キョウコ・ツェッペリン だけなのかな。」
ボソッと言った言葉に、リツコさんは「そうねぇ・・・・・」と呟く。否定をしない事が肯定なんだろう。
「優秀な人だったらしいから。」
東洋の三賢者
奇しくもそう呼ばれた人たちの子供が3人そろっている。
偉大な親を持つ子供。
親を超えようと、親の七光りだけじゃないともがいて結果を出したリツコさんと全く気にしていない僕。そして、親の威光に押しつぶされまいともがいていたアスカ。三者三様と言えば聞こえはいいけど、多分、ヒナノだけが異質なんだと思う。
「リツコさん。キョウコさんってどんな人だったんですか?」
ふと思いついた疑問を投げかけた。
「詳しくは知らないけど。」
そう言ったリツコさんの瞳がわずかに曇った。
「ユイさんとは違うタイプなのは確かね。」
「お母さんと・・・・?」
「ユイさんは結婚を機に仕事を辞めた。知っているわね。」
「はい。」
「家庭に入って、家族を最優先にしたの。」
覚えてはいないけど。でも、冬月先生との会話や、一緒に生活してみてそれは感じた。お父さんも案外、家族を大切にするって事も。
「でもね、アスカの母親は、私の母親同様、仕事が優先。」
仕事が優先?
「家族を蔑ろにした訳じゃないの。ただ、彼女が望むほどの時間が取れなかったの。」
自分に言い聞かせるかのようなリツコさんの言葉に胸が痛んだ。
「キョウコさんなりに精一杯の努力はしたんだと思うの。でもね・・・・・」
伏せられた目が物語る悲しさを感じた。きっと、リツコさんもそうだったんだ、と思った。と同時にリツコさんが父さんにすがった理由も理解できた気がした。
「リツコさん。」
はっきりと目を見ていった。
「ヒナノは大丈夫です。」
相変わらず不安定なままだけど。でも、大丈夫。お父さんとお母さんが居るし。それに、他の人もヒナノを助けてくれる。だから、大丈夫。
「アスカと暮らせます。」
きっぱりと言い切ったら、すっきりした。
ここ最近のもやもやはこれだったんじゃないかとさえ思えた。
「ヒナノちゃん?」
動揺を隠せずにいるリツコさんなんて、珍しい。
でも、それだけ今のアスカと居る事が、リツコさんの何かを、トラウマ的なものを刺激しているんじゃないかと思えた。
「大丈夫です。」
笑顔で答えた。
「え?あ・・・・・・そう?・・・・・なの?」
「はい。」
ヒナノは何もされていないから。碇ヒナノは何もされていない。
だって、もう、碇シンジじゃないから。
「ありがとう。」
「でも、何も出来ませんよ。」
「期待しないで待ってるわ。」
そう言って向けられた笑顔がうれしかった。
「じゃ、現実的な話をしましょうか。」
そう切り出したリツコさんはいつものリツコさんで・・・・・
「今は、私の部屋に居るわ。そして、落ち着いたら、宿舎に入る予定だったの。」
そんな話になっているんだ。知らなかったな。
「未成年だから、保護者は碇夫妻のままでね。アスカは『いらない』って言ったけど、そう言う訳にはいかないでしょ。」
「じゃぁ・・・・・」
「でもね、」
とリツコさんは言う。僕の言葉を遮る様に。
「一人暮らしなんて、出来る訳無いのよ。」
「法律的に?」
「現実的に。」
あぁ・・・、そうか。出来ないな。
セカンドインパクトで血縁と呼べる様な親類関係が希薄になった今、未成年でも一人で暮らしている子供は少なくは無い。
でも、アスカの場合は不可能に近い。現状で、国連や政府からの報奨金やネルフからの“給料”という名の退職金で生活するには十分すぎるお金はある。お金はあったとしても、実際に生活を送るだけの“能力”が無ければ意味は無い。
「ドイツ支部で散々甘やかされてたし、それこそ、家政婦でも雇わないと無理なんじゃないかしら。」
「あはは・・・・そうかもしれないですね。」
乾いた笑いしかでない。
他人を“自分よりも下”にしか見ない彼女にとって、他人からものを教わる事なんて出来やしないのだ。本を見れば何とかなるかもしれないが、そんな事もしないだろう。きっと、電化製品も取扱説明書なんて見ないんだろうな。『アタシには必要ない』とか言って。
「でね・・・・・・」
事務的な話が始まった。アスカの現状や動向、今後について。
あの暴走は一時的なのもじゃなく、状態は落ち着いたものの継続しているらしい。
ま、元々そうだったけどさ。
そう思うとため息が出そうになる。“自分が特別”だなんて思ったことも無いから、その思考回路は理解できそうに無い。
「リツコさん。」
僕の思考はすでに“碇ヒナノ”ではなくなっている。上手く折り合いはつけていたものの、こうなってしまうと、もうダメだ。
「元々そうでしたよ。」
僕の言葉に、思い当たる節があったリツコさんは「そうだったわ。」と呟く。
「仮面がはがれた・・・・と言うか、取り繕っていた所が無くなった感じじゃないんですか?」
「・・・・・・・どうして、そう思うの?」
「小さな子供みたいな駄々のこね方してたから、そんな気がしたんです。」
僕の言葉に表情が揺らぐ。何かを思いついたみたいに一瞬だけ考えると「他に思い当たることは無い?」と聞いてきた。
「え~・・・・・」
思い出したくも無い事だけど、それでも思い出してみる。あの時とは違って冷静に。
「アスカ、僕を支配しようとしてた・・・・かな?」
リツコさんは、続けて、と視線で訴える。どうやら思考はフル回転しているみたいだ。
「なんて言うのかな・・・・・『アタシを子供にしなさい。その方が得だ。』って見たいな事、言ってたんですよね。それって、どういう意味なんだろう?居場所が欲しかったのかな?」
後は・・・・・・
「あ、そうだ、『自分は特別だから、チルドレンだったから引き取ったんでしょ』みたいに言ってたな。母さん、それ、思いっきり否定してたけど・・・・・。」
あ・・・・・・・・
そうだ、そうだった。
「母さん、『キョウコの娘だから引き取った』って言ってたな。それって・・・・・・・」
ガタンと音を立ててリツコさんが立ち上がった。続く言葉は、アスカの存在意義を否定しているみたいですよね、だ。僕は続く言葉を飲み込んだまま、リツコさんを見上げた。
「ごめんなさい、ヒナノちゃん。」
何か思い当たるものがあったんだろう。そんな気がした。
「いえ、お役に立ててよかったです。」
お互いに笑顔を向けあうと「また来るわ。」とリツコさんは部屋を出て行った。
2010.9.26
2010.10.06改定