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  お父さんにしろ、加持さんにしろ、いとも簡単にヒナノを抱き上げてしまう。

 

 歩く事すら儘ならないヒナノからしたら、それが当たり前になっていて何も感じなかったんだけど、驚くアスカを見て、“あぁ、これは不自然な事なんだ”と感じた。

 

 でも、動くことに、歩く事に、ヒナノはこだわりを持っていない。

 この状態が心地よく思えている位だったし。

 

誰かの手を借りなければ生きていけない = 誰かに必要とされている

 

 ではないのも、充分理解している。

 でも、人に甘えられる心地よさは手放せなかったのも事実。

 

 今まで、人に甘える事を知らずにいたから。

 

 だから、今の環境を手放す気なんて、無い。

 

 

 

 


 

 

Special person

 

 

 

 

「どうして?」

 ダイニングで食事をしていたら、やって来たアスカが聞いてきた。

 意味が解らずにぽかんとしていると、怒った様にアスカが続けた。

「何でパジャマのまま、こんな時間に食事してるのよ!」

 どうしてそんな事を聞くのか解らなかった。どうして怒っているのかも。

 ヒナにとっては日常だったから。

「どうして?ねぇ、どうして!」

 関わっている気力も体力も無いから、無視して食事を続けようとしたけれど、しつこく絡んでえ来るアスカに、なけなしの食欲も無くなった。

「ご馳走様でした。」

 半分も減っていないまま箸を置いた僕を、さらに彼女は睨み付ける。

 ・・・・・・・意味が解んない。

 ヒナは今まで通りにしただけなんですか?

 食べられる時に、食べられる量を、何回かに分けて。

 出来る限り食事の時間は一緒に食事はする。でも、一度に食べられる量が増えないから、何度かに分けてその他にも食べる。それでも、体重は増えないけど。

「何で残すの!?」

 ま、当然と言えば当然なんだけど。でも、無理に食べると後を引いちゃうし、気持ち悪くなるし。

「・・・・・・・お腹、いっぱいだから。」

 あなたの所為で食欲が無くなったですけど?

 ・・・・・・・言えたらいいな。

「だからって、作ってくれた人に失礼でしょ!」

 確かにその通りだと思う。思うけど・・・・・・

 君に言われたくは無いよ。過去を思い出してそう思った。口には出せないけど。

「でも・・・・・・・・。」

 言葉が続かない。

 代わりに涙があふれそうだった。

 感情の制御がつかなくなる前に、何とかしなければ・・・・

「もう、いいんですか?」

 ハウスキーパーのルミさんがお皿を下げに来てくれた。

 あぁ・・・助かったと、胸をなでおろす。

「ごめんなさい。お腹いっぱいで。」

「気にしないでくださいね。」

 微妙な笑みを浮かべてたから、きっと、気付いてるんだろうな。

 何だか、アスカが居るだけで、空気が違う。

 張り詰めてて、刺々しくて、痛くて、疲れる。前は、もっと、穏やかだったのに。

 無理して笑ったら、涙がこぼれた。

「何か、飲み物持ってきますね。」

 そう言ってキッチンへ向かうルミさんを見送りながら、ポロポロと涙がこぼれた。

 ヒナノの居場所を奪わないで!

 ここは、この場所は、赤い海から還ってきてからやっと手に入れた場所なんだ。

 大切な場所なんだ。

「アンタ、何泣いてんの!?」

 座ったままのヒナを立ったアスカが見下すように言った。

「イヤミよね。」

 ヒナにしか聞こえない様な声で呟かれた。続く言葉は、あてつけのつもり?と何様のつもり?

「惣・・・流さん・・・・」

 やっとの思いで言葉を出した。

「あん?」

 露骨に“不機嫌”を体全体で表され、手が、体が震えるのが解った。

「アタシの事、“アスカ”って呼べって言ったわよね。」

 確かにそう言われた。でも・・・・・

「ア・・ス・・カ・・・・さん。」

 アスカさんが首を振った。

「アス・・・カちゃん・・・」

「そう、それでいいわ。」

 イヤミな程にっこりとアスカちゃんは笑った後、ヒナの耳元でこう言った。

「アンタと仲良くしないと、追い出されるのよアタシ。」

 背筋が凍った。

 また、支配しようとしているの?

「ほら、泣かないの。」

 そう言って、ヒナの頭をなでるアスカちゃん。

 触られると、鳥肌が立つ位に気持ち悪かったけれど、見た目には“泣いているヒナノを慰めるアスカちゃん”の構図が出来上がる。

 自由にならない体が恨めしいと思ったのは、初めての事だった。

「ヒナノ。」

 名前を呼ばれて顔を上げたら、お母さんが居て・・・・・。きっと、ヒナよりも先に気付いたアスカちゃんがそうしたのだろう、と思った。そして、彼女は、それがとても巧いのだ。

「ヒナちゃん、ご飯が食べられなくて泣いちゃったんですよ。」

 笑顔でそういったアスカちゃんに虫唾が走った。

「そうなの?」

 訝しげにお母さんが聞いてきた。YESとは言いたくない。でも、NOとも言えない。

 曖昧な笑みを浮かべるしか出来ないヒナに、お母さんは何かを悟ったらしい。きっと、ルミさんからも聞いているんだろう。

「あの・・・・おば様。お聞きしてもいいですか?」

 気まずい空気を感じたのか、アスカちゃんが話を逸らす。

「何かしら?」

「私、食事の時間は決まっていると聞いたのですが・・・・」

 そう切り出したアスカちゃん。

「あぁ・・・この子、一度に充分な量の食事が出来ないの。

 だから、小さな子供みたいに何回かに分けて食事をするの。」

「え?」

「体が丈夫じゃないって事は知っているでしょ?」

「・・・・・・はい。」

「消化器系も・・・・・・ね。

 食事の回数を増やしたりして対策は採っているんだけど、それでも定期的に点滴は受けているの。」

「・・・・・そうですか・・・・。」

 お母さんの説明を聞いて、一見、納得した素振りを見えてはいるけれど、きっと、心の中では納得していないだろう。過去の経験から言って・・・・

「あの・・・・・もうひとつ、いいですか?」

 そう切り出したアスカちゃんに、お母さんは座る事を進め、自分も席に着いた。

 そこに、タイミングをうかがっていたのであろうルミさんが、3人分のお茶を置いた。

 お母さんが目で、ルミさんに合図をした。アスカちゃんが気付いたかどうかは解らないけど。

「で?何かしら?」

 アスカちゃんが座ってから、お母さんは話を切り出した。

 ヒナの隣にはお母さん。アスカちゃんはテーブルを挟んでお母さんの前に座る。

 これなら、手を出される心配は無い。

 そう思ってしまった自分がおかしかった。

「どうしてヒナちゃんはパジャマのままなんですか? 私には着替えるように言ったのに。」

 ・・・・・・って・・・・・・

 どうしてそんな事に拘るの?

 ここはヒナノの家なんだよ。アスカちゃんに言われる必要は無いと思う。

「あぁ・・・それはね。」

 お母さんがため息混じりに話し始めた。

「この子、具合が悪くてね。食事が済んだら寝かせるつもりだったから。」

「でも・・・・・・」

 納得・・・・・出来ないの?

「この子にとってはね、“着替える”って事だけでかなりの労力が必要なの。

 だから、今日は特別にね、大目に見てあげて?」

「どうして?」

「え?」

「どうして“特別”なの?」

「アスカちゃん?」

「どうしてこの子が特別なの?」

 ちょっと、待って!おかしいよ、アスカ。どうしてそんなに拘る?

 話す事も無いかと聞き役に徹してたけど・・・・・・でも・・・・・・

「具合が悪い時位、大目に見てあげてね。あなたの時でもそうするつもりだし。」

「どうして?どうして“特別”なの?この子が!」

「具合が悪いときは特別でしょ?」

「どうしてこの子が“特別”なの? “特別”なのはアタシなのに・・・・」

 話が噛み合っていない。おかしいよ。どうしてそんなに“特別”に拘る?

「アスカちゃん?」

「アタシが特別なのに・・・・・」

「そうじゃなくって・・・・・」

「この子が“特別”じゃない。“特別”なのはアタシ。」

「アスカちゃん?」

「アタシが特別なのよ!」

 アスカちゃんが叫ぶように言った。

「だって、ママが言ってたのよ!あたしは“特別”だって。ママが嘘を吐いたって言うの!?」

 まるで小さい子供が駄々をこねているような印象だった。

 おかしい。おかしいよ、アスカ。

「そうは言ってないでしょう?」

「ママはアタシが『特別』だって言ってたもの」

「・・・・・・確かにね。」

 お母さんが言う。アスカちゃんの目をしっかりと見据えて。

「キョウコには・・・・・あなたの"ママ”にとっては、あなたは『特別』。

 だけど、それはどの母親も一緒なのよ。」

「だから!アタシは特別なの!!」

 子供の様に駄々をこねるアスカちゃん。地団駄まで踏んでる。

 どうしてこうなってしまったのだろう?

 『自分の娘は自分にとって特別』

 これは間違っていない。誰に聞いても、そう言うだろう。

 ただ、アスカちゃんはそれを“曲解”してしまっている。

 そして、この状態・・・・・

「あのね、アスカちゃん。聞いてね。」

 お母さんは小さい子供に言い聞かせるかのような話し方を始めた。

「キョウコにとってあなたが特別だったように、私にとってはこの子が、ヒナノが特別なのよ。」

「どうして!!」

 疑問形でなく、言い切った辺りにアスカちゃんの異常性を感じる。

 自分は特別な子供。

 そう信じて疑わないアスカちゃんが怖かった。改めて。

 彼女の母親であるキョウコさんが、どんな意味でどんな状態で『特別』と言う言葉を使ったのかは今はもう解らない。けれど、この言葉にここまで妄執する時点で、アスカちゃんはどこかおかしいのではないか?と思える。今更かも知れないけど。

「簡単な事よ。"自分の子供だから” ただ、それだけよ。」

 シンプル且つ、明確な答え。『自分の子供だから』。誰が言うより説得力のある、“母親”であるお母さんの言葉。

 でも、それで納得するアスカちゃんではなかった。

「だったら!!」

 アスカちゃんが叫ぶ。

「アタシを子供にしなさいよ。その方が絶対に得だわ。」

 ・・・・・・何?それ?

 本気で言ってる?

 やっと僕が手に入れた、“幸せ”を君は、奪うのかい?

 だとしたら、僕は真剣に刃向うよ。どんな事をしても。

 僕自身が、アスカの激情にのまれてしまいそうだった。

 でも、お母さんは冷静だった。激昂するアスカちゃんに対して、淡々と対応する。

 それが余計にアスカちゃんの気に障っているのかもしれない。

「どうして?」

 実に不思議そうに聞き返すお母さんに、アスカちゃんの顔が歪む。

「だって、アタシはチルドレンよ?」

 ・・・・・どうして?どうしてそう思えるんだろう?

 お母さんは、サードチルドレン・碇シンジの母親なのに。

 最早、理解不能。彼女の思考回路が理解できないし、したくも無い。

 関わりあいたくも無い。

「関係ないわ、そんな事。」

 バッサリと切り捨てるお母さんと、安心する僕。

 それに全く気付かないアスカちゃん。

「本当に?」

 勝ち誇ったようなアスカちゃんの顔に吐き気がした。

 ・・・・・・キモチワルイ。

「ねぇ、アスカちゃん。私だって、チルドレンの母親よ?」

 アスカちゃんの顔色が変わった。

 一番触れて欲しくない人物なのだろう。碇シンジと言う存在は。

 だからって、記憶の底に沈めて、墓穴を掘ったら意味が無いと思うよ?

 もう、負けを認めなよ。みっともないよ?

 早くこの言い合い、終わらせようよ。僕が、僕の方がおかしくなりそうだよ。

「私はあなたがセカンドチルドレンだから引き取った訳ではないのよ。

 キョウコの、親友だったキョウコの娘だから引き取ったのよ。」

 お母さんの言葉で、アスカちゃんがここへ来た“理由”が分かった気がした。

 お母さんはキョウコさんを信じたかったんだ。アスカちゃんではなく、彼女の母親を、同じ母親として。

 だったら・・・・・・・。

 体の力が抜けていく。ヒナノの居場所はここなんだ。

 そう思ったら、猛烈な吐き気が襲ってきた。

「本当に?本当にそれだけでアタシを引き取ったの?」

 それでもアスカちゃんは納得していない。

 たった一人残ったチルドレンとしてのプライドなのか?

 それとも・・・・・・・・

「莫迦言わないで! あなたを引き取った事を自慢する位なら、自分の息子を自慢するわよ。」

 ありがとう。お母さん。

 でも・・・・・ヒナはちょっと限界みたい・・・・

「・・・・・・お・・・かあ・・っさん・・・・・・」

「ヒナノ・・・・・大丈夫!?」

 ヒナを見たお母さんの顔色が変わった。

「・・・吐き・・・そ、、、、」

 薄れていく意識の中で覚えているのは、お母さんの手の中に嘔吐したのと、救急車の手配を指示するお母さんの声だった。

 

 

 

 

2010.07.23