m-08

 

  たった一回熱を出しただけで、ヒナの体はリハビリ前に逆戻りした。

 背もたれの無い椅子には怖くて座る事は出来ないし、自分の頭を支えきるだけの筋力も足りない。

 情け無い。

 でも、現実を受け入れない事には、何も始まらない。

 

 無理をしない様に、穏やかに過ごさなければと思う。

 でも・・・・・・これは、僕の罪。

 トウジの足を奪い、赤い海にしてしまった。その上、他人の家庭まで壊してしまった、友達を傷付けてしまった、僕の罪。

 

 

 

 

 

 

Promise

 

 

 

 

 

 

 

 


 あの後、父さんに運ばれたベッドで、実にあっけなく眠りの波にのまれた。

 目が覚めたのは、人の声と物音がした所為でもあった。

「ヒナノ、起きた?」

 お母さんの声がした。

 ノックをしたんだろうけれど、他の物音でかき消されたのかも知れない。

「・・・・・うん。」

 そう返事をしてから、この物音の正体がわかった。

「ベッド、届いたの?」

「そうなの。五月蝿くてごめんね。」

「ううん。大丈夫。だって、時間だし。」

 時計を確認して、そう言った。

 今日はこれから、食事会がある。アスカを歓迎しての。

 食欲は無いし、行きたくもないけど・・・・・無理だろうな。

「そうね・・・・。」

 お母さんの手を借りてベッドの上に起き上がる。一人で出来ない訳じゃないんだけれど、手を貸してくれる時は、甘えてしまう。

「じゃぁ、着替えようか。」

 そう言って、クローゼットに向かうお母さんは楽しそうで・・・・・

「今日の服は、リッちゃんからのプレゼントよ

 その言葉に、猫耳を探してしまったのはヒナの所為ではないと思う。うん。

 洋服の掛かったハンガーを両手に「どっちにする?」って聞かれても、違いが解らないデス。

 違いなんて解んないって・・・・・

 

 え・・・・・・

 

違い。

 

 違いって何だ?

 

 碇シンジと碇ヒナノの違いって何だ?

 

 性別?

 それは違う。でも、それだけじゃない。

 それだけじゃないのは、解る。解るけれど、“違い”が解らない。

 

 自由にならない体?

 確かに、学校には行っていないけど。行ける状態でもないけど。

 

 両親と暮らしている事?

 これは確実に違う。お母さんが“いる”ってだけで生活は変わった。

 でも、根本的な違いはそれじゃない。それじゃない事は確かなんだ。

 家事をしなくてよかったり、朝、自分が起こされる立場だったり、着替えを手伝ってもらったり・・・・そんな表面上の事ではなくって・・・・・

 

 ・・・・・・て・・・・・

 あ・・・・・・・・・・・

 

「ヒ~ナ~ちゃん?」

 実にステキな笑顔のお母さん。

「え・・・・と・・・・ごめんなさい。」

 取り合えず、謝っておこう。うん。

「で?どっちにするの?」

 そ・・・そんな顔で見ないでよぉ。決まられる訳、無いじゃん。どっちも同じに見えるのに。

「え・・・・っと・・・」

「ママはこっちが好きかな~。」

 じゃぁ、そっちで。と指を指す。

「じゃ、着替えちゃいなしょ。」

 服を脱ぐと露わになる、関節の目立つ骨ばった手足。僅かな膨らみしかない肋骨の浮いた胸。華奢な体は、同じ位の年齢の女の子よりも骨が細い上に脆いから、骨折のリスクが高い。代謝機能も低いから、同世代に比べて直りが遅い。その上、発汗機能も低く、体温調節が巧くできない。

 そんなダメダメな体に服を着る。少しでも、骨張った体が目立たない様に。体に負担がかからない様にと。

 そして、僕は、碇ヒナノになる。

「お母さん。」

「何?」

 ヒナの髪を梳かす手を止める事無くお母さんが返事をする。

「久しぶりだよね。お父さんとご飯食べるの。」

 そう、ここ最近、お父さんは忙しくて家に帰っても寝るだけの生活らしい。寝ずに頑張って起きているのを諦め、毎朝、送り出したいな・・・・と思ってはいたんだけれど。それすらも、朝起きれなくて無理だったし。

「そうね。」

 髪を梳かされて、心もとかされていく様だった。

 最近は、細々といろんな事がありすぎて、苛々しっぱなしだったし。

 苛々ムカムカしてた所為か、食欲もないし。

 お母さんがブラシを机の上に置いた。そして、

「はい。」

 お母さんが真新しいバッグを手渡してくれた。お父さんが買ってくれたもの。一緒に買いに行く事が出来ずに、お父さんが買ってきてくれたもの。

「ありがとう。」

 その小さなバッグの中に必要と思われるものをしまう。どれも、お父さんとお母さんが用意してくれたものだけど。これからは、自分で買いそろえなくちゃいけないのかもしれない。お小遣いだって貰ってるんだし。

 少しだけ前向きに考えた。

「じゃぁ、行きましょう。」

 そう言って、部屋を後にした。


 
                                                                                                                                                                              

 

 

 

「こんばんわ。冬月先生。」

 お母さんに習って、ヒナノは副指令をそう呼ぶ。だって、チルドレンじゃないし。

「こんばんわ。ヒナノ君。調子はどうかね?」

 ヒナノ前では好々爺となってしまう冬月先生に目を丸くしているアスカが視界に入った。

「まぁまぁです。」

 笑顔で答えると、笑顔が返ってくる。

「おや、いつもと服の感じが違うね。」

 む・・・・・・鋭い。

 お母さんが選ぶのはピンクとか白とかの淡い色合いなんだけど、リツコさんが選んだのは黒を基調としてたりする。

「今日はリツコさんがプレゼントしてくれたのなんです。」

「そうか・・・・。」

 そう言って、冬月先生は一瞬だけ考え込んだ。

「私からも何か、プレゼントしよう。」

 アクセサリーか?バックか?それとも、服か?

 続く言葉に苦笑がもれる。この人は、お母さんと、お母さんそっくりなヒナノをやたらと構いたがる。あの頃はそんな素振りすら、無かったけど。

「冬月先生。」

 お母さんのストップがかかる。

 大体いつも、こんな感じ。お父さんと冬月先生がヒナを甘やかし、お母さんがそれをたしなめる。

「いいじゃないか。な?ヒナノ君。」

 同意を求められても・・・・・・

 助けをお母さんに求めると、目が笑ってた。

 じゃぁ、無難な辺りで・・・・・

「お父さんにお休みを下さい。この前のお休みはヒナの所為でお出かけできなかったから。」

 もれた苦笑に自分を反省した。そうだよ、ヒナが熱を出したから行けなかったんだよ。だから、お父さんはこのバッグを買ってきてくれたんだ。

「・・・・・・それで、いいのか?」

 そう言われた所で、ヒナにはあまり物欲が無い。周りの人が買ってきてくれてしまうのも理由のひとつだけれど。おしゃれに興味がある訳じゃないし。欲しいと思うのは本やCDだし、それはネットで買えるから。

「それ“が”いいんです。」

 会話をしながら、視界の端にずっと、アスカがいる。その表情は驚きを隠せていなかった。

 だって、ヒナノはチルドレンじゃないから。冬月先生が、ネルフの副指令である事なんて関係ないから。両親の知り合いの気のいいおじさんでしかないから。

 だから、おねだりだって出来るんだし。

 チルドレンに拘って、そこから一歩も出れずにいるアスカからしたら当然なのかもしれないけれど。

「そうか・・・・考えておこう。近いうちにまとめて休める様にするよ。」

「ありがとうございます!」

 思わずヒナにしては大きな声でお礼を言ってしまったのは、本当に嬉しかったから。

「ヒナノ、よかったわね。」

 お母さんも嬉しそうだ。お父さんは・・・・・嬉しそうだな、うん。

 

 

 

 

 和やかに行われた食事会に冬月先生と加持さんが来た理由が分かった。

 今後、生活する上での約束事が決められたから。

 例えば、食事の時間だとか、門限だとか。

 きっと、第三者的な立場で、この事に意見を求めたのだろう。
 

 

 門限は7時。夕食が7時から、だから。

 それが遅いのかどうなは解らないけど、これはヒナノにも適用されるそうだ。遅くなる場合は、理由と共に連絡する事。

 あの頃は、そんな事は全く関係なくって・・・・・・ネルフで遅くなる時は、大体みんな一緒だったし。

 遅く帰った時は、ミサトさんやアスカがシャワーを浴びたりくつろいだりビールを飲んだりしているのを横目に、食事の支度をしてたんだよね。そう思ったら、何だか少しムカついてきた。

 食事の時間も決まられ、その時間外の場合は用意されたものを自分で温めなおして食べるか、自分で作るかする事になるらしく、この件については、アスカが反発した。でも、それは聞き入れられる事は無かった。

 きっと、『このアタシに食事を作れって言うの!?』って事なんだと思う。言葉には出さなかったけど。今まで好き勝手にしてきたからな。あくまでも、“自分中心”で。そんな生活、出来るのかな?

 心配、と言うよりも、その事でこっちに被害が出ない事を祈りたい。マジで。

 幾つかの約束と幾つかのお願い、それは食事の時間だとか、門限だとか、お手伝いだとか、そんな幾つかの決まり事をしてアスカとの生活はスタートした。

 

 

 

 

  案の定、翌朝は時間通りに起きる事が出来なかった。

 

 目が覚めて時計を確認したら、10時を回っていた。

 学校に行っていないからこそ、規則正しい生活を心掛けてはいるんだけれど、どうしても疲れてしまった翌日は起きられない。そして、この体はとても疲れやすい。

 今日も、“疲れているんだろう”と判断したお母さんがヒナを起こさなかったのだろうと思う。日曜日でお母さんはお休みだから。

 はぁ・・・・と盛大にため息をひとつ。

 幸せが逃げるかな?そう思いつつも、とめる事が出来なかった。

 今日はこのまま、お布団の中で過ごそうかな。疲れてるし、食欲ないし、また体調崩したくないし。

 そんな些細な願いは、お母さんの登場で覆された。

「ヒナノ、起きてる?」

 ノックの音と同時に開いたドアからお母さんが顔を出した。

 ・・・・・起きてます。

「どうしたの?具合、悪い?」

 心配そうに聞いてくるお母さんに笑ってみたつもりだった。

「ねぇ、ヒナノ。言いたい事は、泣かずに言おう・・・ね?」

 ・・・・・・・まただ。また、言葉よりも先に涙が出てくる。

 体調が悪いから精神的に不安定なのか、精神的に不安定だから体調が悪いのか。よく解らないけれど、体調も精神的にも、いい状態じゃない。退院はしたものの、ダメージから回復していないみたいだった。

「・・・・・お母さん・・・・」

「ヒナノがね、大丈夫じゃない時に泣いちゃうの、お母さんは知ってるわ。でも、ご飯を食べないと元気にならないでしょ?」

 うん。

「だから、食事だけはして。・・・・・ね?」

 うん。

 お母さんの手を借りて起き上がり、お母さんの手を借りて車椅子に移動する。

 今のヒナノには自力で立ち上げる力が無かった。

 


 

 2010.08.04

2010.08.05   改定